パニック障害

快方へ向かっていたパニック障害が過重労働で悪化(2011年6月)

2023年8月1日

快方へ向かっていたパニック障害が過重労働で悪化(2011年6月)

ブラックな勤務環境の部署へ異動

パニック障害を専門とする病院に通い始めてから3年、乗り物にはチャレンジしていなかったものの、日常生活における発作や予期不安はかなり改善されてきました。

数年前に転居してきた宿舎には駐車場があり、新しく車を購入したので、妻の実家帰省や家族旅行などには支障が無くなりました。

私の実家は札幌なので車では行けませんが、いずれ車両通行可能な第2青函トンネルができることに期待していました。

乗り物の事さえ考えなければ、落ち着いた日々でした。

しかし今年度、新しい部署に配属されて状況は一変しました。

これまで私は研究開発などのアカデミックな気風の部署で勤務してきましたが、今度は行政的な部署で、とてもブラックな勤務環境でした。

  • 不眠:原則24時間勤務。椅子に座ったまま数分寝落ちすることはありましたが、横になって寝た記憶は無いです。
  • 不休:もちろん家には帰れません。心の支えの家族に会えず、妻にパニック障害の悩みも相談できません。
  • 不食:食事に行ってる暇も無いです。そのうち食べないことが普通になり、食事チャンスがあってもサラダしか受けつけなくなりました。体重が3ヶ月で15Kg減。

仕事はそれなりにこなしていたと思いますが、こんな生活ではだんだん調子が落ちてきました。

明らかに過労死ペースだったように思います。

実際、一度意識を失って病院に搬送されましたが、点滴を打ってそのまま戻って仕事に就きました。

そしてついに、私特有の弱点が露呈したのです。

  • 出張:北海道から九州まで、飛行機や新幹線を使う出張が多数必要となった。

パニック障害患者の私が一番苦手な出張。

この恐怖に我が身をさらす計画を私自身が作成(これは当たり前だが)するよう命ぜられました。

普通の人には楽な仕事だったであろうと思います。

むしろ、このブラックな空間から数日でも離れらるということで、同僚は喜んで国内外に出張していました。

しかし私には、これがとどめでした。

出張計画を作りながら、乗り物の中でパニック発作を起こしている自分を想像して、その後はもう記憶が残っていません。

次に覚えているのは、自宅のベッドの中から動けなくなった自分でした。

もうベッドから一歩も出たくない。

誰にも会いたくない。8年前の大阪の自分に、完全に戻ってしまったのです。

せっかく快方に向かっていたのに。

過労で心身疲弊+飛行機出張の予期不安=パニック障害悪化

病院に行き、診断書というものを初めて書いてもらいました。

夏には他部署へ異動、それまでの間は休暇となりました。

妻が職場を訴える気でいたのが、上司に通じたのかもしれません。

確かに、裁判になったら証拠・証言には苦労しませんし、判例等を客観的に考察しても勝てたと思います。

しかし当の本人としては、まず生きる力を回復しなければならなかったのです。

一週間ほどはひたすらベッドで寝て、それから少しずつ散歩などを始め、そののち水泳に行ったり、図書館に通ったりしました。

ようやく食欲も出てきましたし、何より妻と会話できること、家族と一緒にいても良いことが至上の幸福でした。

薬はワイパックスの量が一時的に増えたのと、睡眠リズムが狂っていたので新たに睡眠薬としてヒルナミンを処方していただきました。

しかしヒルナミンは効きすぎたのか翌朝気分が悪くなったので、そのことを先生に伝えると処方がアモバンに変わりました。

ですが、その頃にはある程度眠れるようになっていたことと、睡眠薬を飲んで眠ることが、そのまま起きてこられなくなりそうで怖く感じ、飲み慣れているワイパックスを服用して睡眠リズムを整えました。

1ヶ月半ほど休み、出勤訓練を開始しました。

まずは部署には行かず、敷地内まで。

最初はそんな訓練なんてと思っていましたが、予想外に足がすくみ、知人に会うのではと思うと早く逃げたくなりました。

これは確かに訓練が必要だと感じ、段階的にプログラムをこなして、ようやく部署に行けるようになりました。

今回、職場へ診断書を提出したことで、それまで何となく歩んでいたエリートコース(という名の呪縛)から脱落し、精神的に自由になることができました。

これからは家族と健康を最優先で生きていけると思います。

今までの生き方に無理があったのです。

このままでは遅かれ早かれ死んでいたでしょう。

これをチャンスとして自由に、柔軟に、あるがままに生きていこうと思いました。

-パニック障害